魂の観点から

先日の記事「インナーチャイルド 1.」 は、少々重めな内容になってしまいましたが・・今日は魂の観点から綴ってみますね。

魂は、今世生まれる前に、さまざまな計画を立てて、契約を交わして転生します。

私の場合は、両親のもとで育った環境がとても重要でした。魂の観点から捉えると、両親はとても辛い役割を担い、私の気づきを促す目的があったのです。

私には一種の衝撃が必要でした。本来誰しも無条件に愛されている存在でありますが、そこから浮上したものは〝闇〟でした。〝3次元に生きる私〟に闇を抱かせるのが、〝両親の魂〟にとっては、ひとつの役目だったという訳です。

〝私の魂〟は学びたくて望んだことでした。闇を知らなければ、光との統合は不可能だからです。

これ以上ない程に落ちてしまったとき、絶妙なタイミングで感情解放をサポートする人が現れたり。一見それが、どんなに酷く冷たい裏切りだと感じられたとしても、魂の次元では愛をもって背中を押してくれた人もいます。

ある人は、肉体という器から離れる時を目前にして、魂は永遠で在ることを教えてくれました。「pas á pas」

お互いが課題を乗り越える目的があって約束を交わし、今世出会っているということです。

計画はあくまでも計画であり、自由意思がありますから、その通りに事が運ぶとは限りません。躓くこともありますし、どこかで迂回することだってあるかもしれません。

ですがそれさえも、必要であるから経験します。

1度の経験で乗り越えられなかったときは、再び〝壁〟だと感じられる出来事や、そこから抱く感情の手放しに挑戦する機会が訪れます。今世クリアしなかった場合は、来世に持ち越して再び挑戦するという課題もあるのでしょう。

どの道を辿っても、そうすることがその人にとっての大切な学びの過程ですから、善悪を判断するものではありません。

これまでの私たちは、目に見える物事を判断してきました。それは永らくそのように受け継がれてきたのですから、致し方ないのかもしれません。

これからは、起こる事象を俯瞰することにより、気づく段階に在ります。見えないものに、意識を向ける次元に在るということです。

どちらかに傾くのではなく、すべてはバランスです。調和です。

そこに真実が在るのです。

コンパクトフィルムカメラ

バッグにポンッと入れても邪魔にならない〝NATURA CLASSICA (ナチュラ クラシカ)〟を手放したこと、ちょっぴり後悔していたのですよ泣

ですがその1年後の先日、状態の良い〝CONTAX Tvs〟に出会うことが出来ました。

Photo by HaLu

搭載されているカールツァイスのレンズ、こっくりとした写りが大好きなので大感激です。

で。手元に届いた日の仕事前にフィルムとリチウム電池を購入して、ランチタイムに早速1枚撮ってみたのですけれど・・取説が無いため当てずっぽうです。

案の定、ピントの合わせ方が違っていたり、何故だかパノラマ撮影にしていたりして・・

仕上がりが想像出来ちゃいますね。。

仕事から帰宅後、検索してじっくり使い方を試したので、これでたぶん大丈夫。・・だと思う。

撮りたいものが溢れていますが、このご時世・・不要な外出を控えているのでお預け状態続いています。

今年は秋桜も逃してしまった!

来春の桜並木が、今のところのささやかな目標。

インナーチャイルド 1.

〝家系のカルマ〟というのが、我が家にはありました。

代々受け継がれたこの呪縛は解かれることなく、同じ傷を負った者同士であった父と母は、利害や建前、体裁に重きを置き、条件つきの結婚をします。

傷みを抱えたままのふたりは、愛情を感じたくても、愛をどう与えればよいのか、どう受け取ればよいのかがお互いにわからず、更に傷つけ合うばかりでした。

やがて、何かの拍子に刺激される傷みは、子どもへと向けられ、それを当時は〝躾〟と呼びましたが、今で言う〝虐待〟というものでした。

そして、この連鎖は私へと繋がり、止めなければ終わらないことに気づいたのは、次女が2~3歳の頃でした。どうにもこうにもコントロールの効かない感情に襲われ、葛藤を抱くのです。

その頃、〝インナーチャイルド〟(内なる子ども)を知り、傷ついたままの幼い私が心に在ることを自覚します。

私は恵まれていたのだと思います。話を聞いてくれる人や、手を差し伸べてくれる人、インナーチャイルドについて詳しく教えてくれる人もいましたし、環境にも守られていたからです。

ではでは‥。だからと言って娘たちは、母親である私に傷つけられなかったのか?と言えば、そうではなかったと思います。

娘たちは、ある時はお姉さんのように、またある時は妹のように、私のインナーチャイルドに寄り添い癒してくれる存在でしたが、私は葛藤の最中〝無〟に徹して娘たちを寄せつけませんでしたので、心は傷つけていたと思います。

娘たちも大人になり、対等に話すようになると、思い出したかのように母親(私)へのさまざまな想いを打ち明けるのですが、それらすべてに耳を傾けて聴くように意識しています。それが娘たちにとっての感情解放に繋がると信じて、当時私が抱いていた気持ちも包み隠さず伝えるようにしています。

〝自分〟を乗り越えると、意識は社会へと向き始めました。たくさんの子どもたちに携わる仕事をしていると、感情表現が出来ずにいる子どもたちが実に多いことを知るのです。それに伴って、ソウルワークに繋がる生きる意味に気づくことが出来ました。

経験をもって寄り添うとは「今ここ」なのだな‥と、ようやく辿り着いたばかりです。

不思議なことに娘たちも、子どもに携わる仕事や進路を選択し取り組んでいるところですが、頼りになる先輩であり後輩のような関係を築いています。

今だからわかるのは、私の両親は愛情がなかった訳ではありませんでした。〝恐れ〟に支配され、表現の仕方がわからなかっただけでした。

両親はインナーチャイルドそのものだったからです。

秋分の日を境に

秋分の日を境に
少々足踏み状態であった
ソウルワークへと繋がる道は
半ば強引に推し進められ
抵抗が生み出す不安は
物理的な解決をもって払拭され
こちらの都合と
合致してゆくその流れに
どこか不思議な感覚を抱きつつ
すべてが整ってゆく様は
必然なのだなあと
疑う余地が何処にもありません
ちなみに
アボカドは私の大好物

自分へのご褒美

2020年は、自分を育てながら、まとっていた鎧を脱いでゆく年だと感じており。その度に〝岐路に立っては選択し乗り越える〟を繰り返しています。

〝流れに身を任せる〟とは、抵抗せず生きること‥

それはある意味そうなのかもしれませんが。

私、ある時までは目を逸らしていたのだと思います。流れに身を任せながら〝違和感〟というサインを受け取りながらも。

あと一歩の準備が出来ていなかった‥それに尽きるのですが。

それさえも、必要であるから経験するのですね。何度も何度も状況を変えては、根底に在るものを見せられるのです。

〝準備〟が整うときは、自分に降参したときです。肩書きとかプライドとかで、どんなに自分の身を護っているつもりでいても、弱さや甘さを見せつけられるのですね。

自分と向き合うことに結びついてゆくのを、いつしか知らないふりは出来なくなっていました。

ここ最近は特に、逃げも隠れも出来ないほど、透け透け!って言うのでしょうか。なんだか表現力が乏しくってごめんなさいですが。。

あらゆることにクリアな感覚は気持ち好い。それはもう本当に〝ありがとう〟なのです自分に。


今日は髪をばっさりとカットしました。これまた様々な感覚や感情を通して必要が無いと感じたからなのですが。すっきりしました。

その帰りカフェに寄り道。ここは何となく2年も足を運ぶことがありませんでしたが、大好きなレアチーズは変わらず美味しくて。

Photo by HaLu

これってご褒美だなあ。

ひとり時間のひとりカフェ、特別感が半端なくて。幸せに包まれるひとときでした。

確固たるもの

ここ数週間、分岐点に立ち竦んでいました。

どちらも辿り着く場所は同じでしょうが、そのうちのひとつは〝辿る道〟にエネルギー的な引っ掛かりを感じてならなかったのです。

もうひとつは、経験を活かす必要を感じているというのに、3次元的な問題による諦めの気持ちは否めませんでした。

この時点で進みたい道は明らかだというのに、思考は迷いを生み出していたのですね。

ですが、ミッションを遂行する道へ導かれるように、サインはあちらこちらに散りばめられていました。

何度も何度も目の前に展開される事象は、自らの感覚をもって表現するたびに「私、やっぱりこれが好きなんだわ。」と実感し、確固たるものとなるのです。

すると、3次元的な問題と思い込んでいた〝枠〟は取り払われ、必然的にGOサインが示される。とんとん拍子に事は運ばれてゆきました。

進むべくして進む道は、開かれてゆくのですね。

求めてやまない願いは〝いつかの私〟に寄り添うことに他なりません。

それを〝経験する必要がある人〟と私は出会うであろうと、強く感じているからです。

プリンを前に青空を想ふ

エネルギーのシフトチェンジが起こるときの
あれは
本来の自分の声に沿って生きよう
そう決めた瞬間
分厚い雲の中を突破するような
その先に広がる青空みたいな
そんなふうだったな‥って

キッシュとか
プリンをいただきながら

大好きなカフェにて想ふ
Photo by HaLu

感情を昇華する

「あれを失ったら何も残らない。なのに扉を開いて見ることが出来そうにない。」

近くに在るのに遠くに在るような。いつでも手を伸ばせば届くのに躊躇ってしまう。

この感情の根底に潜むものは「恐れ」に他ならず、怯える自分を理解しているというのに、見て見ぬ振りをしながら日々を重ねていました。

ところがある日、フッと「もう大丈夫だ。」という確信があって、この領域に触れることになるのです。夢の中を彷徨うみたいに、ふわふわぼんやりとした意識の中で扉を開いたのは不思議な感覚でした。

あれから随分と月日は流れたというのに、私の記憶は鮮明に蘇り、ですが淡々とそれらを視覚から受け取ってハートに落とし込んでいました。

あの頃はあんなにも抵抗していたというのに、悲しみや苦しみ、怒りを理解すると同時に、更に深いところに潜む真実を知ったのです。

「今この膨大な情報が消えても何も失わない。」と気づき、すべてを昇華しました。

真実は魂に在る。それだけで充分なのだと知ったのです。

失うものなど、何ひとつとしてありませんでした。